新ガラマニ日誌

ガラリアさん好き好き病のサイトぬし、ガラマニです。

最後の悲劇 エラリー・クイーン著 田村隆一訳

最後の悲劇

SONY Reader Store

悲劇四部作、堂々の完結

もう終わっちゃうなんて、さびしいな。もっと読みたかったな、このシリーズを。…そんなふうに感じる最終回こそが、よい終わり方なのだ。

前作『Zの悲劇』で、この俺にきらわれた女、パットが、ひきつづき登場。しかし彼女の存在意義とは、ドルリー・レーンの物語の、幕引きのためにあったのだった。

ネタバレ、いくないので、伏線の解説は、ごくおおざっぱに書くにとどめたいと思う。

悲劇四部作はバーナビー・ロス名義で発表された

エラリー・クイーンは、悲劇四部作を発表した当時、わざと別名を用いた。バーナビー・ロスと名乗り、ただでさえ、エラリー・クイーンの中の人が、藤子不二雄状態なのを、さらに隠蔽した。バーナビー・ロスは覆面作家であり、文字通り覆面をかぶって、エラリー・クイーンと対談したんだって。別人のフリして。別人って、もとから二人で一人なのに。おもしろい従兄弟たちだねえ。

かたや、国名シリーズの作者、エラリー・クイーン。かたや、悲劇四部作の作者、バーナビー・ロス。実は、中の人は、見たままの二人であり、片方が原案を書き、片方が文章化していた。

発表当時、アメリカのお友達も、日本のお友達も、エラリー・クイーンと、バーナビー・ロスは、本当に別人28号だと思っていたそうで、何年も後に、悲劇四部作も実はクイーンの作ぴょーんと、バラされたとき、えらいビックリついたそうだ。狙ってやがんの、中の人二人がよー。

別名を用いたことに大いに意味あり

エラリー・クイーンたちにしてみれば、バーナビー・ロス名義は一時的なもので、したがって、探偵ドルリー・レーンのシリーズも、長々続けず、早々に終了するつもりで、四部作を構成した。『Xの悲劇』の最初から、全四巻で完結になるように、巧妙に作りこまれていたことが、『最後の悲劇』まで四冊つづけて読むと、なるほどそうだったのかと、よくわかるのである。

ネタバレは書かないようにするが、第四巻の『最後の悲劇』で、探偵ドルリー・レーンのシリーズは、完全に終了するのだ。そして、主人公ドルリー・レーンの、物語からの退場をうながすためには、もう一人の探偵役を登場させる必要があった。その役が、『Zの悲劇』全編を一人称で語った女、パットなのである。

『最後の悲劇』は、もとの三人称にもどり、『Zの悲劇』での、パットの一人称に激怒していた俺は、安心して、ドキドキして、読み進めた。ラストまで読みきり、ラストの、たたみこむ衝撃に、呆然となった。本当にこの本を読んでよかった。

とにかく、何度でも言うが、エラリー・クイーンの本を読んだことのないお友達は、この悲劇四部作を、『Xの悲劇』から順番に読むことを、俺のカシオミニにかけておすすめする。

読書って本当にいいものですね

読書ってものは、読書することそのものに価値があるので、本の内容は、個人の好きずきだ。でも、だけど、クイーンの悲劇四部作は、すっごくよい内容だ。

いっこだけ、余談になるが、述べたいことがある。

俺が小学生だった、1970年代。小学校の図書館には、シャーロック・ホームズシリーズや、モーリス・ルブランのルパンシリーズや、江戸川乱歩明智小五郎シリーズなどの、ハードカバー本が、ズラリと並んでおり、それらは大人気で、いつも、貸し出し中だった。クラスメイトの男子が、俺より先に、『シャーロック・ホームズの生還』を読んでいたりして、彼の口から、「ライヘンバッハの滝に落ちて、ホームズが死ぬよね。あれって、生きてるんだよ。安心しなよ。」と、教えてもらったり、「ホームズとルパンを読んだら、ルパン対ホームズを、読むべきだよ。」と、おすすめしてもらったり、したもんだ。

また、テレビで、映画「犬神家の一族」が放送され、石坂浩二演ずる金田一耕助の活躍に、おどろおどろしい殺人シーンの連続に、小学校のクラス内で、話題は持ちきり。俺たち子供は、推理小説や、その映像化作品が大好きだった。

そんな俺たちを、国語専門の教師が、叱責した。

純文学か大衆文学か

推理小説なんか読んだって、読書のうちに、はいらないんだぞ。下品な。純文学を読め!」

俺は今、こんなことを言っていた当時の先生と、同じぐらいの年齢になり、いまごろになって、エラリー・クイーンを読みふけっており、つくづく思うのだが、先生が言いたかったことも、わかるのだ。言い方が悪いので、反発をまねきやすいが、純文学と、推理小説とでは、確かに、目的とするものが、ちがっている。

純文学(名)大衆的、通俗的でない小説の類。

と、愛用の三省堂国語辞典にはある。いっぽう、推理小説とは、通俗的のきわみであろう。人間は、通俗的なもののほうに惹かれやすい。だから先生は、子供のうちから、純粋に文学性を追求する純文学を、読むことに慣れさせたいという思いが、強かったのだろうと思うし、それはそれで、確かにそうだと思う。

ただ、通俗的か、そうでないかという、ものさしだけで、推理小説が、文学の一ジャンルとして、劣等であるという意味にはならない。ましてや、下品ではない。

そんなことを言ったら、世界最高の純文学だと俺も思う、川端康成の『雪国』で、主人公の島村は、いやらしい中年のデブの妻子もちの、つまらない男で、その上、不労所得があるため労働もせず、年がら年中フラフラ遊んで暮らしており、特に芸者遊びが大好きで、とある雪国の旅館を毎年訪れ、ハタチ前後の清らげな芸者、駒子たんを買いにきては、彼女は、今年は去年よりも、きれいになったなァと、ながめて思っているだけの本だ。なんてキモチが悪いのだろう。ラストシーンで、島村と駒子たんは破局をむかえることが示唆されるが、そんなもん、駒子たんは、おまえみたいなもんとは別れたほうがいいに決まっとるわボケカス。

いっぽう、ホームズシリーズは、二人の青年紳士が、困っている人々のために、命の危険もかえりみず、助けにゆく本だ。なんて勇ましいのだろう。いったいどっちが「下品」なんだか。

マア、そんなことは、イイのだ。つまりこういうことだ。エラリー・クイーンに代表される、本格推理小説とは、犯罪トリックを解き明かすことが目的で、文章がえがかれている。一方、純文学は、文章をえがくことが目的で、より美しい文学をめざしている。立地点がちがうのだ。文章そのものを純粋に追求しようとする純文学から見たら、文章を「道具」として用いて、読者の興味をあおる推理小説は、ちがう畑の産物であろう。ちがう畑だっていうだけである。優れているか、高尚か、という論点では比べられない。

俺はもとから海外翻訳小説が好き

さて、いい歳をして、ようやく、本格推理小説を読み始めた俺。ミステリ読者としては、ヨチヨチ歩きの俺は、『最後の悲劇』を読み終えると、飢えたハイエナのように、もっともっと、本格推理小説を、読みたくなった。

そして、ネットで、「おすすめ海外ミステリ」を検索し、SONY Reader Store の、「書籍/文学/ミステリー/推理/サスペンス(海外)」カテゴリから、次々と、これはと思う本を、ダウンロード購入しはじめた。もう俺をとめることは、誰にもできなかったし、誰もしたくないし、すべきではなかった。

…ネタバレをきらうあまり、『最後の悲劇』とは、なんも関係ない文章を書いてしまったが、それもよかんべ。ディスクン・カーの、これから読もうと思ってた本のネタバレを、ウィキペディアで読んでしまった俺の、『ネタバレの悲劇』よりかは、ずっといいさ!