新ガラマニ日誌

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Zの悲劇 エラリー・クイーン著 田村隆一訳

Zの悲劇

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俺はいままで、クイーンの悲劇四部作は、世界一の推理小説だと主張してきた。第1巻にあたる『Xの悲劇』、つぎの『Yの悲劇』は、一部の隙もない完璧な小説だった。(←だった、って…いつ、過去形に、かわったの?)

悲劇シリーズが全四巻である事実は知ってて、そいで、二冊目まで、完璧だったので、俺は、ワクワクで、三冊目の『Zの悲劇』を、読みはじめた。

…ネタバレ、いくないから…

…行間を、空けるから…

…俺の感想を、読みたくない人は、マジ読まないで。(以下、20行、空けます。)



















パット、うぜえぇぇええーーーーーーーー!!

ちょ なにこの女 なにしに登場してんの?『Zの悲劇』冒頭を読み始めたら、硬派で高貴なドルリー・レーンさんじゃなくて、サム警部の娘、ペイシェンス・サム、通称パットが出てきて、出てきただけならまだいいが、パットの一人称で、小説が進行しやがんの。

それに――だれあろう、あの名探偵ドルリー・レーン氏保証ずみの――きわめて回転のいいオツム、もわたしは持っている。それにまた、わたしの最大の魅力の一つは、『チャキチャキのオテンバ娘』だってよく言われるけど、これだけは、この物語をおしまいまで読んでいただければわかるとおり、まるっきりのでたらめです。

いいえ、でたらめではありません。パット、あんたの、その語り口調がうざい、うざいんだー!

まさか、このバカ女の、バカっぽい一人称は、まさか、まさか、第一章だけだよね?そのうち、三人称にもどるんだよね?と、不快な気持ちで読みすすめた俺。

ところが、この、パットの一人称が、なんとビックリ、小説のおしまいまで続いたのだった!

あのな、あのな、あのな。俺がな、同じエラリー・クイーンの著作の中でも、国名シリーズ(探偵はエラリー・クイーン青年)よりも、悲劇四部作(探偵は老優ドルリー・レーン氏)を好む理由は、探偵役の人物像が紳士で、好ましいからってのもあるが、作風がちがってて、そこが好きなんだよ。

国名シリーズは、いい意味で、俗っぽい。いっぽう、悲劇四部作は、クイーンが別名義で覆面作家をしていただけあって、意図して作風を変えてある。ドルリー・レーンのシリーズは、いい意味でノーブルで、いい意味でアカデミックなのだ。だからよかった『Xの悲劇』と『Yの悲劇』だったのに、パットの一人称で終始した『Zの悲劇』は、ストーリーは、そりゃまあ、よかったけれども、前作までの、たんたんと恐怖心をあおる文体を期待していた俺は、パットの一人称うぜえー!の、大ブーイングをした。

そして俺の怒りの矛先は、翻訳者のあとがきへと向けられた。はたして、田村隆一たんは、こんなことを書いていた。

ますます円熟味を加えてきた名探偵ドルリー・レーンとともに、本篇から初登場する、きわめてチャーミングな近代女性、ペイシェンス・サムにも、どうか読者のご声援をいただきたい。

イヤです。田村たん、俺、この子きらいです!もう出さないでください!

彼女は、四部作の最終篇『最後の悲劇』にもひきつづき登場し、その若々しい知性と行動力とで、老優ドルリー・レーンにとって最大の難事件に肉迫します。なにとぞ、ご贔屓のほどを。

イヤだってば!ふんだ、なによっ!作中で、父親サムやレーンさんもパットを贔屓しまくってたのに、そんだけじゃなくって、翻訳者の田村たんまで、みんなしてパットのこと、かわいがっちゃってさっ!俺は好かないね。『最後の悲劇』で、またパットの一人称で全編通したら、俺、暴動おこすからねっ一人で!

…と、いうわけで、俺は、せっかく好きだった、クイーンの悲劇四部作の、第三巻めにして、この作品に、落胆したのであったか?

いいや、ちがう。

諸君。この、パットの登場タイミング。読者に、パットうぜえと思わせる。翻訳者が、あとがきでフォローする。

これがすべて、最終回への、壮大なる伏線だったのである。

さすがだ… 息をのむ最終回は、このつぎ。