新ガラマニ日誌

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和田渡著『18歳の読書論』晃洋書房刊

18歳の読書論―図書館長からのメッセージ

18歳の読書論―図書館長からのメッセージ

読書をすすめる本の著者は、なぜ、怒っているのだろう?

最近の若いやつらは、読書をしなくなった。どいつもこいつも、パッパラパーになりよって。それもこれも、本を読まないからだ。要約すると、こういう意図で、怒っていることが、多い。

『読書力』(岩波新書)の斎藤孝せんせいも、怒ってた。読んでるこっちがドン引きするぐらい、怒ってた。『本の読み方 スロー・リーディングの実践』(PHP新書)の、平野啓一郎せんせいも、怒ってた。アンチ速読だと、息まいていた。

同じように、和田渡せんせいも、怒っている。大学の、図書館長なんですってよ、奥さん。ご職業からして、さぞかしお怒りだろうと予想し、前書きを開いたら、そこには、本を読まずに、スマホに没頭している若者どもへの警句が、携帯電話への呪詛が、ネット依存症への罵倒が、地獄の業火に焼かれるがよいぐらいの勢いで書かれていた。

続・18歳の読書論―図書館長からのメッセージ

続・18歳の読書論―図書館長からのメッセージ

この2冊の本は、阪南大学図書館サイトに、同氏が連載しているコラムを、単行本化したものである。

阪南大学図書館
http://www2.hannan-u.ac.jp/lib/

毎回、小説や、詩や、古典の、おもしろいお話しを、今どきのバカ学生でもわかるように、興味を持てるようにと、ハードルを下げに下げて、書かれているのだろう。著者の工夫と、苦心とが、読みとれる。

だが、著者は、哲学者だから、どうしても自分の専門分野について語りたくなるのか、思想書をすすめられている回が、少なくない。

セネカニーチェモンテーニュはもとより、マルクス・アウレリウスエラスムスレヴィ・ストロース、なおかつ、シモーヌ・ヴェイユと来た日には、主題が重くて、ビックリする。

和田渡先生の専門は、現象学だ。はっきしゆって、門外漢には、難易度が高い。だが、だからといって、そうした思想書は重たいと、身構える必要は、ないのだ。シモーヌの不幸を見るがいい。彼女の、あるがままを感じるがよい。読んで感じたこと、本を読みながら行ったこと、それがそのまま、読書体験なのだ。

むずかしいと思ったなら、それもよい。なんなら、中途で投げ出してもいいと思う。本を読むって、なんだろうか。冒険をすることだと思う。旅をすることだと思う。誰かを愛することだと思う。本の中で、俺はたくさんの旅をしたし、おおぜいの人に出会った。

俺が6歳の時だ。『アンデルセン童話集』の、原訳の分厚いやつを、苦心惨憺して読み通した。読みにくかった。意味がわからなかった。川端康成が翻訳した『小公女』を読んだのがその次で、小学1年生になっていたが、登場人物の名前が覚えられなくて、ノートに書き出しながら、読み通した。

12歳の頃、小学校の図書館では、『シャーロック・ホームズの冒険』や『アルセーヌ・ルパン』シリーズが、奪い合いの人気作だった。俺もそれらの推理小説、冒険小説は大好きだった。そんなある日、俺は我が家の本棚で、『ツァラトゥストラかく語りき』を見つけて、ちょいちょい読んだ。怖い系の、ファンタジー小説だと思ってた。寺山修司の戯曲も読んだ。淫猥さに、しびれた。思春期をむかえていた。

16歳になり、熱狂したのは、無頼派だった。案の定だろう、俺は太宰治を愛した。けど、坂口安吾は、もっと愛した。

『18歳の読書論』は、18歳向けに書かれているが、俺は、今まだ、著者がすすめる本のうち、どれだけも読んではいない。俺なんて、18歳なみの…いいや、やめておこう、悔やむことはない。事実、後悔はない…。

今日も明日も、俺は好きな本を、読み続ける。『宝島』のシルバー船長を慕った思い出は、小学生の時。『ジャン・クリストフ』の詩人、オリヴィエの思想に傾倒したのは、つい先月だ。先週は、推理小説の雄、ジョン・ディクスン・カーの『夜歩く』に、うっとりと酔いしれた。

俺が読書を好む理由は、純粋に楽しいからだが、そんな俺に対して、著者は教示する。好むと好まざるとにかかわらず、古典は、読まなければならないと。先に俺は、6歳で『アンデルセン童話集』を読んだが、意味がわからず、苦労したと書いた。その苦労こそが、必要な読書体験だった。著者は言う。多感な時期に、どんな本を読んだか、どれぐらいの分量を、読んだかによって、その人の人生の、色彩が決まると。

俺はどうだろうか?何色の俺だろうか?今は、多感な時期なのだろうか?

和田渡著『18歳の読書論』は、辛辣な本だ。著者は、怒っている。その怒りは、この俺に向けられているのだ。バカ学生は、おまえのことだと、指さされているからだ。