新ガラマニ日誌

ガラリアさん好き好き病のサイトぬし、ガラマニです。

長崎旅行記(4)被爆者に、貴賤なし。

1945年8月9日、午前11時2分。世界で二番目の原子爆弾は、ここ、長崎市へと投下された。

この写真は、立山防空壕

場所は、長崎歴史文化博物館を出てすぐだ。立山防空壕は、空襲時、長崎県知事らが集まり、司令を発していた場所で、原爆投下時刻、永野若松知事は、ここにいた。2005年11月から公開がはじまった施設で、中に入ると、被爆時のがれきの形状がそのままあり、壮絶な気配に満ちている。俺の背中に、ぞうっとする重たさ、冷たさがのしかかり、わあっと泣き出して、たまらなくなって出てきた。
被爆直後の長崎に、救護班として駆けつけた医師がいた。彼の名は、隆旗良和。灰塵と化した長崎駅に降り立った隆旗医師は、そのときの心境を、このように書き記している。

何という馬鹿な、何という愚かな、相手が米国だとか、ソビエトだとか、そういうものではない、そういう交戦国を対象としたものではない、人類というものが利口そうに見えていて意外に愚かなものであり、ああこれで人類は滅びるなあといった、実に淋しい、嗚咽したくなるような、泣きじゃくりたくなるような、人類の前途に対する挫折感。こんなにまでして、一挙に数万の人命を奪い去らなければならないかという全霊的な悲しみであった。この深い悲しみは、今日とても、決して薄らぐものではない

この文章は、長崎市立図書館の、一階正面にある施設、「救護所メモリアル」の展示から引用した。
長崎市立図書館は、長崎県庁と長崎市役所とをむすぶメインストリートの、真ん中らへんに位置する、真新しい、きれいな建物だ。

旅行二日目、俺は、長崎歴史文化博物館坂本龍馬の展示を見てから、「そろそろ日暮れだし、今夜は、あとどこに行こうかな。」と、行き当たりバッタリな散策をしていた。

「あ、そうだ。美輪明宏さんの生家*1って、どこらへんだったっけか。『紫の履歴書』か、『オーラの素顔』に書いてあったな。けど俺、メモってくんの、忘れちったい。おや?こんなところに図書館が。ちょうどいい、ここで調べよう。」

フラリと入ってみて、よかった…知らなかった。この図書館は、被爆時には、新興善国民学校があった場所だったのだ。そう、隆旗医師は、特設救護病院となったこの国民学校で、働いたかたなのだ。図書館に立ち寄らなければ、「救護所メモリアル」コーナーを見つけなければ、この、隆旗医師のことばにも、出会えなかった。
引用した文章は、長崎滞在中に読んだ文章のなかで、ひときわ心に残った。

俺は、次の日、長崎旅行三日目に、有名な原爆資料館周辺をじっくり見る計画をたてていた。以下でその写真を見ていくが、長崎の原爆資料に共通して抱いた感想は、「押しつけがましくない」ということだった。

2005年の秋、長期休暇がとれたので、広島に初めて旅行した。そのとき、なんでもっと早くここに来なかったのだろうと、自分を責めた。被爆地の資料は、すべての人類が知るべきもの、見るべきものだと思った。

「次は、長崎に行かなければならない。」

戦争と平和について考えると、俺たちが、当たり前に享受している日常が、いかに貴重であるかがわかる。俺は、市井の民となれたことを、誇りに思う。一人の人間として、例えばこのようにウェブサイトで発表できる社会が、いかにありがたいか。手があり口があり、ことばを発すること=生きていることが、いかに幸せか。

長崎を旅して強く思ったことは、長崎に住む人々が、原爆の爪あとを、街角のそこかしこに、さりげなく保存し、毎日の生活を一緒に暮らしている、その日々こそが、尊いということだ。

さて、旅行三日目。路面電車に乗り、浜口町駅で降りた。俺と一緒に、おおぜいの人々も降りた。ちょうどこの日は、「第4回核兵器廃絶・地球市民集会ナガサキ」の初日だったのだ。調べて行ったわけではなく、行き当たりバッタリドッキリコで、これだ。俺はよくよく、旅の神に愛されているとみえる。

午前11時2分に間に合うよう、まずは、国立長崎原爆死没者追悼平和祈念館に入った。お参りしたとき、館内には俺一人で、静寂につつまれた。あちこちに、流水がしつらえてある。水、水、水をくださいと言いながら、苦しんで死んでいった「すべての命に」ささげてある。

この施設は、新しく、清楚で、お参りするためにいい場所を作ってくださったなあと、嬉しくなった。

次に、原爆資料館をじっくり見た。

ここの展示は、いさぎよい。長崎の「押しつけがましくない」反核メッセージの真骨頂が、ここにある。テーマは「反核」一本であって、「長崎の原爆」だけを問題視していないのだ。我々がすべきことは、被爆者をこの地球からなくすことであって、長崎の被害をだけ、訴えればいいのではないのだ。展示は、戦前の長崎の歴史を、美化も特化もせず説明するところからはじまり、戦争の経過、そして広島、次いで長崎への原爆投下。

言語を失する展示物の数々。被爆した生活用品、血のりのついたままの服…写真の数々。中でも目をひいた写真は、がれきにつぶされた、馬だった。目をむき、舌を出し、死んでいる、馬。農耕馬だろうか、軍馬だろうか。いや、馬だ。彼は、ただむごたらしく殺された、馬だ。

被爆者に、貴賤なし。

原爆の犯した罪は、これなのだ。原爆にとって、日本人も、朝鮮人も、区別ない。男も女も、大人も子供も、区別ない。動物も植物も、区別ない。仏閣も、マリア像も、区別ない。有機物と無機物の区別も、ない。

原爆にとって、すべての生命は、すべての物品は、

「みんな等しく、価値がない!」スタンリー・キューブリック監督のベトナム戦争映画「フルメタル・ジャケット」より、ハートマン軍曹のことば)

原爆資料館の展示は、長崎に続けて、戦後の核実験の数を、とうとうと数え上げていく。劣化ウラン弾の被害者や、原子力発電所で被曝した労働者の証言は、いま現在も、被爆者を作り続けている世界の実情を示す。

被爆者に、貴賤なし。

長崎の後に、被爆者が、こんなにも増えていくのは、なぜだ?

原爆落下中心公園にある、爆心地の碑。そして、その横になんの遠慮もなく林立するラブホ!こういう…こういう…なんて言うんかなぁー、「修学旅行生が集まる場所に、連れ込み(死語)を建てるなんて、いかがわしいザマス!」な派閥に、いっこうに遠慮しない感じが、俺には「押しつけがましくない」、いい感じに思えたんだぁー。

イチオシの写真だよ。クリックして原寸を見てね!この空の青さ!!長崎は、今日も晴れだった。爆心地に移設されている、浦上天主堂被爆障壁だ。聖像の、手。見てほしい。爆風にもげたこの手を、見てほしい。空を見つめるひとみを、見てほしい。

平和の泉。噴水には虹がかかり、美しい。おお、中央に見えてきたのは、有名なアレやがな!

平和祈念像だ。設置された頃、このおにいさんの顔立ちが、日本人じゃないみたいだからアカンとか、批判もあったらしい。

だが、空を見よ。彼が右手で指すあそこには、あの日、原子爆弾を落とす「人の手」があったのだ。その「人」とは、なにじんか?なにじんか、が、問題なのではない。被爆者を、今もってなくしていない責任は、アメリカ人だけにあるのではないだろう。

天よ、神よ!彼の左手が指す、もう一方を見やった。あの日、空には原爆があったが、いまとこれからには、平和があるのだ。

彼の指す、平和の方向には。あれなるは…浦上天主堂だ!東洋一の規模を誇る、壮麗な教会だ。

長崎が世界に見てほしい大聖堂。正面には、どどーんと、ISDNと印字された電話ボックスがぁっ!

首がふきとび、鼻をそがれた聖人たち。熱線で我が身を焼かれながら、なおも俺たちを、いとおしく見つめてくださる。

原爆の一瞬に、全壊させられた浦上天主堂は、戦後、再建され、被爆聖像とともに、天高くへと俺たちを導きたまう。それにしても、なんて清んだ空だろうか。天主堂の、赤いレンガと、スカイブルーの対比のきれいなこと!

被爆した鐘楼の残骸は、このように、そのまーんま、置いてある。こういう…なんて言うんかなぁー、ほら見ろこれ見ろ、っていうやり方、してないから、なおさら感動するんだよ。ただ、置いてあんのよ。ホント、「押しつけがましくない」。だって、これが、事実だもの。原爆の瞬間に、天主堂と、その中にいた神父さま2人と、敬虔なキリスト教徒24人は、この鐘楼と同じように、ふきとんで、ひきちぎられて、そのへんにバラバラになっていたのだ。

浦上天主堂から少し歩けば、永井隆記念館に着く。これは、永井博士が死ぬまでを暮らした如己堂(にょこどう)だ。

長崎医大の永井博士は、放射線科の名医だった。だが、白血病にかかり、死の宣告を受けていた。そこへ原爆投下。彼のうら若き妻は、家の跡から、炭化した断片となってみつかった。幼い子供2人と、病身の父親が、焼け野原に生きのびた。終戦後、永井博士は、病臥した体でもできる仕事をしようと、文筆と絵画をはじめた。幼い子供2人を、食べさせるためだ。

代表作は、「長崎の鐘」「この子を残して」。

「この子を残して」は、俺は小学生のときから、何度も読んだし、テレビ番組などでも見聞きし、永井博士の名前は有名だなあと、そんなふうにボンヤリ感じながら、記念館に入った。

驚いたのは、永井博士の享年である。43歳。わ、若い…!

子供心に「はかせ」と聞くと、「おじいさん」という印象を持つから、闘病して亡くなった永井博士の苦しみを、俺はちゃんとわかってはいなかったのだ。43歳だって?!ほんの若者じゃないか。晩年の博士の写真を見れば、まだ、あどけなささえ残る、青年なのである。

自身そんなに若くして、幼ない我が子を残して、死ななければならないなんて!どんなにか、心残りだっただろう。どんなにか、痛かっただろう。

ひとには、その年齢にならなければ、わからないことがある。俺は、永井博士の享年に近い歳になり、はじめて、彼の無念を知った。

長崎には、いつかきちんと行かねばならないとは思っていたが、いま行こう、すぐ行こうと、背中を押された記事がある。長崎在住の写真家、T・斉藤さんによるルポだ。

@nifty:デイリーポータルZ:長崎原爆の痕跡に触れて

浦上天主堂と、以下に紹介する、一本足鳥居、そして被爆クスノキを取材したT・斉藤さんの記事を読んで、「写真のここ、絶対行こッ!」って決めたんだ。本物を見つけたときは、感動したなあ。T・斉藤さん、ありがとう御座います!俺のこの旅行記も、相当、影響受けていますよ。

「あっ、あれは。一本足鳥居だ!」階段マニア的ベストショット。

この鳥居は、爆心地にほど近い山王神社のもので、爆風で片足がふきとんだ。…ふきとんだんだろうなあって、見たまま、わかる。

…原爆というものの、ある種の「無邪気さ」に、ゾッとする…無邪気というと、語弊があるかもしらん、が、これは、「無邪気」だ…。人類は、ほんとうに、自分たちがなにをしたのか、わかっているのだろうか。

鳥居を通り過ぎると、山王神社の前に来る。ここには、被爆クスノキがある。

山王神社の境内から見る。

一本足鳥居と、被爆クスノキの足元では、子供たちが元気よく、遊んでいた。山王神社のおとなりが、託児施設なのだ。

夕刻せまる長崎の街。被爆クスノキのこずえは、夕陽をうけまぶしく、強く青々と茂る。こずえの、ザワザワいう音と、子供たちの、明るい笑い声が、天高くへと、響き渡っていた。

美しい街、長崎よ、ありがとう。旅行記は、これでおしまいです。

美輪明宏著『紫の履歴書』を紹介した過去記事。

*1:美輪明宏さんの生家があった場所は、電停思案橋駅下車、本石灰町(もとしっくいまち)である。こんなにぎやかな街で育ったのか、とビックリする。昭和10年、丸山臣吾たんこと後の美輪明宏さんが生まれた頃、彼の家は、長崎随一の繁華街で、カフェ「世界」を繁盛させていた。筆者は、付近の居酒屋で、長崎近海で獲れた魚介類に舌鼓をうち、ほろ酔いで、美輪さんち、どこ〜♪と歩きまわり、だいたいこのへんやろな〜って、階段を千鳥足で歩くものではない、見事にこけた。