新ガラマニ日誌

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『紫の履歴書』美輪明宏著

晦日の夜、皆さま、いかがお過ごしですかオーホホホ(←ものまね)。

紫の履歴書

紫の履歴書

俺の人生に残された時間内に、俺は俺の読みたいすべての本を読めないだろう。世界には、とてつもなくおもしろい本が、たくさんたくさんあり、俺はその中でまだ、ほんのほんの少ししか、読んでいないのだ。なんという、怠け者なんだろう俺は。

2006年度に出会った本で、最大の発見は、美輪明宏先生の著作だった。俺は、彼の本の、比較的新しい単行本から順に読み、すべて読み終える最後に、『紫の履歴書』を読んだ。同氏の著作では、最も古いものであり、彼が33歳の時が初版だ。

美輪明宏というと、テレビ番組「オーラの泉」がブレイクした年だった。これがきっかけになり、彼のテレビ出演が増え、書籍が売れているのは喜ばしい。だが、俺は唯物論者なので、彼の神秘主義的な面ばかりが取り沙汰されるのには、眉をひそめている。あろうことか、美輪先生が歯牙にもかけていない、とある下品な占い師と、同ジャンル視されているむきもある。あのですね、美輪先生とアレは、ぜんぜん違いますからッ!なにがどう違うと、説明すんのもバカバカしいや。

美輪明宏の本は、人生相談をテーマにした説教が多いが、『紫の履歴書』を読んで非常に驚いた。彼の著作の中で、最も初期のこの本だけが、異色だからだ。まず、一人称が「僕」だ。まるっきり普通の少年の、日常を描いた私小説だ。「僕」は、物心ついたころからの記憶を鮮明に描写し、成長してゆく。家族との死に別れ、戦争、長崎の原爆。徹底したリアリズムで綴られる原爆体験に震撼する。あの流麗な美輪さんが、ほんとうに体験したことだとは、にわかには信じられないのだ。俺は、いくらかの戦争体験記を、読んだつもり、読み取ったつもりになっていたことを恥じた。

長崎に原爆が落ちた日、「僕」は、縁側で絵を描いていた。仕上がりを見ようと、絵の前に立ち、一歩、二歩と後退した。それでたまたま縁側の陰に入り、「ピカ」の直撃を逃れた。「僕」はその瞬間、よく晴れたお天気なのに、なんで雷光が?と思った。空襲だと叫ぶ、家のお手伝いさんに手を引かれ、「僕」は表に出た。以下引用。

荷台の前で、ドサリと横になって死んでいる馬の傍で、馬方らしい人間が、ぴんぴん飛び上がっています。丸裸で全身が紫とも赤ともつかぬ火ぶくれで獣のような声をあげています。
僕は声も立てず走り出そうとした瞬間、
「助けてくれえ!」
と、ひしゃげた声がして何かに押しつぶされた男か女かもわからない人間が頭と手を差し出し、僕の手をつかんだのです。
「ギャー」
僕が夢中でその手を振り払ったら、その人の手や腕の肉が、ずるりと抜けて飛び、その肉の余りが、僕の手首についています。僕は気違いのように、それをもう片方の手で、そぎ落とし、水に溺れる瞬間のような鼓動と思いで走ります。
美輪明宏著『紫の履歴書』水書房刊より

俺はこの本に対して、陳腐な、浅はかな語彙しか持てないことを恥じ入る。10歳で、こんな体験をして、その後の人生、悪夢にうなされずに、健やかに、生きていけるだろうか。「僕」がその後、艱難辛苦を経て、スターになってくれたことに、俺は御礼するべきだろうか。すべきだろう。

『紫の履歴書』前半は、戦前戦後の一少年の生活を描き、後半は、芸能人・丸山明宏の私生活を描く。若い青年の色恋沙汰を読むと、ああ、美輪せんせいも、人の子なんだなぁと安心する。ハッキリゆって、恋のお話しのくだりは、ノロケが多くて、あんまりおもしろくないのだよッ!そんな部分もあるもんだから、彼に親近感がわくのだ。

俺は、衣食住に困らない平和な暮らしを甘受して、己が幸福を自覚せず、あれがない、これが足りないとわがままばかり言っている。俺はいわゆる平和ボケではないと思う。ボケてはいられないことは知っている。だが、俺はこの本を読む前には、随分に怠惰だったと思う。怠惰は、罪だ。もっと、本を読まなければ。もっともっと、貪欲に邁進しなければ。人の声に耳を傾け、一冊でも多く本を読み、鉛筆をとり書き綴り、俺が俺として生まれた意味を問わなければならない。生かされていることに感謝しなければならない。信念を折ってはいけない。そうとも、やすやすと折れるようなものは信念とは呼ばない。絶対に絶対に、怠けてはいけない。

そう思える本、『紫の履歴書』に出会えてよかった。

今年も、平和な暮らしをありがとう。来年も、頑張りますよ俺は。