新ガラマニ日誌

ガラリアさん好き好き病のサイトぬし、ガラマニです。

京都・奈良旅行記(1)ガラマニ母校へ帰るの巻

話しは遡るが(←「功名が辻」風)、9月の中旬、購読サイトさんである日本史日誌さんで、作者id:sanraku2さんが、素晴らしく長期な、素晴らしく楽しそうな京都・奈良旅行記を書いておられた。

http://d.hatena.ne.jp/sanraku2/20060910/s1

それをしげしげと読んだ俺は、「いいなあ…いいなあ…学生時代に住んでいた、池田屋のある街にも、もう何年も行ってないし、大好きな奈良にも、随分行ってないし。sanraku2さんの書いてる史跡、俺は未見の所が多いなあ。ああ、ここ、行ってみたいなあ…いいなあ…いいなあ…

あーん!俺も京都・奈良旅行、行きたい行きたい、行きたぁああああい!」

とわめきちらし、オンオンひとしきり咆哮した後、だったら、行けばエエがな。という結論に達した。

仕事の休暇と、安い宿のとれる日程を勘考した結果、12月の初旬に決定。この旅は、たんに観光旅行にとどまらず、母校で恩師にお会いするという大目的も含まれていたので、先方様にご連絡差し上げ、旅程を組んだ。

師走の晴れた日、JR京都駅に降り立った俺。JR京都駅が、現在の、光子力研究所のよぉな、極めて醜い建築物に建てかえられる以前を知っている俺は、「相変わらず、醜いのう。昔の京都駅は、風情があったよ。」とつぶやきながら、勝手知ったる地下鉄に乗り換えた。ネットで予約した某ビジネスホテルは、中心街のどこかにあり、平日格安プランで、ツインをシングルユース。広くていい部屋だった。

1日目は、河原町界隈をうろつく。繁華街の変わりように驚いた。寺町や木屋町などにあった、古書店や洋書店、小汚くて居心地よかった居酒屋は姿を消し、バカ観光客用のオサレグッズ店やピンサロ(死語)が立ち並ぶ。女子学生だった俺が、深夜一人で徘徊しても、まあまあ安全だった歓楽街は、客引きの黒服がうろつき、なんだかすっかり変わってしまっていた。これでは、他の都市の歓楽街と変わらないじゃないか、京都の街特有の、文学的な雰囲気は失われたのか…。夕食は、仕事帰りの女でごったがえすレストランでとった。そこはさすが関西、夕食のコースは、安くてボリュームあり、美味しゅう御座いました。

2日目、恩師との歓談は午後なので、午前中は、母校の隣りにあるこんなお寺で遊んだ。

このお寺は、学校にあまりにも近いため、在学中にはじっくり訪れた記憶があまりない。ガラマニの母校については、下記ガラマニ日誌を参照されたし。
http://www11.ocn.ne.jp/~garamani/nissi33.university-1.html

母校の東門。ガラマニは毎日、この狭き門をくぐった。

母校の広場。

この広場は、俺の在学中には3号館という校舎が建っていた場所だ。俺は3号館1階のトイレを愛用していた。すいてるし、同館に保険センターがあった関係で、いつも清潔だったからだ。現在、この広場には、俺の母校らしからぬ、小奇麗なオープンカッフェ〜が出来ていた。喫煙スペースが迫害され、キャンパス内全面禁煙が掲げられていたのにも、世の趨勢を感じた。バンカラで汚くて荒々しいのが特長だった我が母校が、変われば変わるもんだぜ。俺在学当時には、キャンパスいたる所に灰皿があり、どいつもこいつもくわえタバコだった。特にかわいい女子学生が、フィリップモリスあたりを吸っていると、逆にもてた時代だった。

俺在学当時はグラウンドだった所は、公園みたいになっていた。そこで大学猫ぬーを発見!学生に慣れ、のんびりくつろぐ猫ぬーに心安らぐ。

午後、恩師に再会した俺は、武田信玄に破れた合戦で、恐怖のあまり馬上でうんこもらした時の徳川家康と同じ状態になった。そう、緊張性の急性の大腸炎、ようするに下痢だ。ガラマニにとって、誰が「目上」って、この先生こそが、世界最上級「目上」なんである。緊張しまくり、昼食をご一緒させていただきながら、うんこを我慢し、涙目である。た、助けて…。先生と笑顔でお話ししながら、おなか真ん中ゴロゴロ、「ち、中座します。」よろよろトイレットに駆け込み、内臓なくなるんじゃないかという勢いでバリバリ放出、数年ぶりにお目にかかる先生に、落ち着いた大人になった俺を見せたかったのに、マンモス下痢ピーが気になって気になって終始挙動不審という始末…

母校の東門へと続く道

俺がよく行ってた定食屋、べんけい。週刊少年ジャンプは主にここで読んでいた。

同人誌活動をしていた俺が、イベント締め切り直前にコピー誌を刷っていたコピー屋さん。「8」円の貼り紙が、今もいい味出してます。

俺が最も愛した喫茶店、ムジーク。ムジークとはドイツ語でミュージックのこと。クラシック音楽専門喫茶です。

3日目も、チェ・ゲリバラはやまず、しかもあいにくの雨模様。だが緊張からは解放された俺は、JR大和路線で、一路、南へ。以下次号。