新ガラマニ日誌

ガラリアさん好き好き病のサイトぬし、ガラマニです。

ガラマニ日誌35 沖縄旅行記 慰霊の日・平和祈念公園

06/6/23(金)慰霊の日

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灼熱の太陽が照りつける。梅雨が明けた沖縄の地に、降り立ったガラマニ。今日は、敗戦より61回目の、沖縄の「慰霊の日」だ。ああ、なんて暑いんだ。燃えさかる暑さだ。沖縄の吸気は、熱気で蒸し、潮の香りがねばりけをおびて、鼻腔にからみつく。

前日、6/22の夕刻に、那覇空港に到着し、その晩は、ゆいレール(※)旭橋駅近くのホテルに宿泊。

ゆいレール那覇市内に近年完成した、便利なモノレール。那覇空港から、首里城までを結び、途中、美栄橋や牧志(まきし)などの、繁華街を経由する。券売機で買える、一日乗車券600円がお得。モノレールの高架から見渡せる、市内風景が見もの。

翌朝、徒歩で、那覇バスターミナルに行き、糸満市方面への路線バスに乗り込む。那覇バスターミナルには、おおぜいの人々が集まっており、みな、沖縄県民にとっての大事な日に、大事な場所へ行こうと、手に手に、花束を持っている。俺が、「どのバスに乗れば、平和祈念公園に行けますか?」と問わずとも、周囲の誰もが、同じバスを待っていた。花束を持った人々と、俺を乗せ、バスは一路、糸満市摩文仁(まぶに)を目指す。そこは、沖縄本島最南端の断崖で、きょうこれから式典が開催される、平和祈念公園があるところだ。と、しか、俺は認識していなかった。

バスの車窓から、うつり変わる風景を眺め、自らの、来し方行く末を考えていた。俺は、海のないガラマニ県に生まれ、戦後の高度経済成長期に子供時代を、バブル経済期に青春時代を過ごした。贅沢にうつつをぬかし、怠惰という名の幸福を自覚せず、大学では左翼を名乗り、健啖家を気取るも大成せず、この旅は3回目の沖縄だが、前2回は、2泊3日のツアーで海水浴しただけ、今回は一人旅、滞在型で沖縄本島を満喫する予定、特に、慰霊の日に合わせて日程を組み…ブツブツゆってるうちに、平和祈念公園を目前にし、バスが、いっこうに進まなくなっていることに気がついた。

海岸沿いの道路は、片側一車線。平和祈念公園を目指す車両のせいで、渋滞になっている。道々に、制服のポリが目につく。腕時計を見ると、午前11時30分。かばんに突っ込んだ沖縄タイムス6/23日号を取り出し、一面記事を確認すると、こうある。

糸満市平和祈念公園で開かれる県主催の沖縄全戦没者追悼式は、午前十一時五十三分に開式。正午の時報を合図に、すべてのみ霊に黙とうをささげる。小泉純一郎首相も五度目の参列で、哀悼の意を表する。」
するってえと、今頃はもう、会場に小泉首相がいるはずだ。ただでさえ多い参拝者の車両に加え、首相警護の車両が加わったせいで、渋滞がひどくなっているのだと思った。そこここに散らばるポリは、もっぱら、首相警護に熱心なようだ。路上で停止したままのバスに、業を煮やしたお年寄り男性は、「もうええ!ここから歩く!」と宣言し、バスから降り、太陽光が反射するアスファルトを歩き始めた。わたしも、わたしもと、次々と、お年寄りが、手に花を持った人々が、バスを降りる。陽炎ゆらめく摩文仁の道。かつてこの地面を、裸足で惑った、あの日々!なんのこれしきが、暑いものか。歩け、歩け!生きている我らは、なんのために今日、ここへ来たか?彼らの足取りが、そう俺に問いかけた。

 

以下この項の写真はすべて 06/6/23にガラマニが撮影した。

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平和祈念公園全景

正午ぎりぎりに、平和祈念公園前に到着。バス停から、式典会場の白いテント屋根が見えた。駆け足すれば、すぐ着くだろうに、あまりの暑さに、走れない。つばひろ帽をかぶり、ペットボトルのうっちん茶(ウコン茶)で給水していても、陽光は刺すように、痛いほどに、熱い。

 

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平成18年沖縄全戦没者追悼式

 

小泉純一郎は撮影時、中央の人垣の向こうにいた。俺が会場に辿り着いた時刻にはもう、「全員、黙祷!」は終わっていたらしく、参拝者は、祭壇中央を望む黙祷用スペースで、三々五々、お参りをしていた。俺は帽子をとり、持参した水晶の数珠を持ち、黙祷を捧げた。すると小泉首相が、何か話し始めたが、俺は首相見物にここへ来たわけではないので、クルリと背を向け、スタスタ歩いて、まずは日陰に入ってしゃがみこんだ。暑いし、それに…会場の雰囲気に、感極まっていた。

沖縄県では、今日、6/23は、市役所も学校も、お休みである。条例で公休日と定めたことに対して、国から圧力を受けているとの声も聞いた。そんな国家の、あいつを前にして、沖縄県民は微動だにせず。戦没者の無念をのみ、尊ぶ。気高い人々だ。この日、俺は、一人で公園内を歩き回り、日陰でへたり込むたびに、ただ嗚咽するしか出来なかった。えーんえーんと、泣いた。ああ、まさに灼熱地獄だ…こんな気候の中、まさにここで、地獄の激戦があったのか。

今日という日に、ここへ来なければ、わからないことの、多さ、大きさ。

 

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平和祈念公園から見渡せる海岸は、沖縄戦跡国定公園

 

この美しい海岸で、1945年の暑い長い日々、ガマ(洞窟)に追いつめられた沖縄の人々が、虐殺された。米軍の、毒ガスや火炎放射器に焼かれて殺された。日本国軍には、さんざん利用され、殺された。或いは自決を強制された。隷従に耐え忍び、産物を文化を奪われ、皇国に殉じてなお、沖縄県民に、日本国軍から与えられたものは、地獄の戦場だった。沖縄戦を闘い、殺された人は、二十数万人以上。うち、九万人以上が民間人といわれているが、正確な死傷者数は、いまだもって、わからない。写真に見える、ごつごつした岩肌に、爆裂した人間の、ちょん切れた腕や足や、乳房のえぐられた胴体や、女の長い髪や、少年の眠ったような顔の生首やが、バラバラ、ばらばら、転がっていた。ぐちゃぐちゃの死体の上に、またごろりと死体が落ちた。血糊は腐り、うじむしは白くうごめき、臓物が散乱した。ほら、そこの足元に。海の色は、血の色のことだった。青は赤で、正義は茶番で、アメリカも日本も鬼畜だった。戦争はキチガイなのであり、にんげんは、ひとではないのだ。それが、単に事実だ。単に事実であることを、単に知った。

沖縄の戦跡を見て、俺は、俺なんかの口から、なにを言っても浅はかだと思った。この日誌に、沖縄戦についての、史実的記述をするべきだろうかと、迷った。1945/3/26が、米軍が慶良間諸島に上陸した日、次いで4/1には嘉手納に、続々と兵力が押し寄せた。以降80日間よりもっと長く、沖縄は、米軍による集中砲撃をあびた。あたかも雨風がごとく、砲弾のふる。これは「鉄の暴風」と呼ばれ、山岳がえぐられ地形が変わってしまうほどのすさまじい爆撃で…ああ、ちがう、こんな表現は…慰霊の日に定められた6/23は、ここ摩文仁で、日本国軍の司令官と参謀が自決し、名目上の組織戦が集結した日である。その後も戦争は続き、本土で敗戦日とされている8/15以降も、沖縄戦は続き、9/7に沖縄守備軍が降伏し…ああ、ちがう。ちがうんだ、俺が感じたのは…それは悲惨な戦闘でしたと。簡単だよ、くちで言うだけだったら!俺は、いったいなにを、書くべきなのだろう。いったいなにを捨て、なにを求めるべきなのだろう。命ある者であるからには。

さっき、バスに乗っていたとき、「自らの、来し方行く末を考えていた。」と書いた。しかし、平和祈念公園の施設を見て回るうち、俺は、こうした自我を失っていった。意識が遠のき、なにか、我ではないものになっていた。ガラマニ県で平穏無事に暮らしていた自分では、なくなっていた。忘我。熱射で、ぼうっとしていたせいかも、しれない。しかし…なんだろう、この感覚は?

 

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命が、かげろいたつ岩肌

広島の原爆資料館に行ったとき、俺は被害者意識一辺倒で、おのれ鬼畜米国めと、勇ましくタンカを切った。広島の教えが、間違っているわけではない。だが、沖縄戦の実態は、俺のような、内地の戦争談しか知らない者にとって、明らかに異質であった。

大戦を語るさい、「我が国は」ではないのだ。「日本国は」と、沖縄戦の云う。

知識としての沖縄戦は、知ってはいた。しかし、俺が持っていた知識とは、情報でしかなかった。それには事実が欠けていた。欠落と呼ぶには、重篤にすぎる事実が。俺が沖縄で得た知識とは、戦場は地獄であるという、単なる事実だ。地獄とは、この世に、常に生まれいずるのだ。いとも簡単にだ。銃が人を殺し、人は人を殺し、眼孔は潰れ、黒髪は燃えぷちぷちと臭気をあげる。少女は生殖器を切り裂かれ、赤ちゃんは股関節を逆向きにねじられ、母は血だまりに狂って、死ぬ。これが大義正義の正体だ。皇国日本も、アメリカ帝国主義も、今もこれからも、戦争ある限り、この世に地獄はなくならない。蝶が…舞っていた。白い羽、ぱたぱた、きらめかす蝶たちが、ささやいた。耳を、すませてごらん。ほら、白波の音と。

 

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平和祈念資料館

平和を祈り念ずると書いて、「きねん」。平和祈念資料館だ。慰霊の日は、入館料は無料。館内の撮影も、ぜんぜんオッケーだったにも関わらず、俺は、展示品に、カメラなどを向けては、不遜な気がして、撮影できなかった。いや。衝撃のあまり、凝固してしまっていた。この資料館にしかない写真、映像、遺品の数々は、にんげんであるならば、見るべきものだと思う。特に凄惨を極めるのは、米軍が撮影した、カラーフィルム映像である。血は、赤いのだ。忘れるな。

この資料館の素晴らしさは、拝観者に「判断をゆだねる」構成である。さっきからくり返し、俺が書いている、「単に事実であること」。沖縄の平和祈念資料館は、たんたんと事実をのみ、展示している。拝観コースは時系列を追うだけ、資料は、実物および実物の再現だけ。展示物のどこにも、主観的・思想的誘導を意図した構成は見当たらない。コースの最後には、体験記の閲覧コーナーがある。もっと知りたいならば、これを読め。いらぬならば、ここを去れ。だが、事実は、去らず!ここにあるのだ!と。

展示物のひとつに、ガマ(洞窟)の中にいる沖縄の家族と、日本兵の姿を再現したマネキンがあり、後から裏話を聞いた。人形の日本兵が持つ銃剣は、沖縄の民間人に向けられていたのだが、「どこか」からの圧力で、銃剣の矛先が、外へと(米軍へと)変えられたそうだ。恥を知れ、「どこか」。

 

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平和祈念資料館からのびる道

資料館を出ると、花や手土産を手にした皆さんが、一路向かうほうがあるので、ついて行った。黒光りする、四角い石のモニュメントが?あれはなんだろう?

 

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墓石群、平和の礎(いしじ)

平和の礎(いしじ)だ。おお、あれが、亡くなったかたがたの名を刻んだ墓石かと、走り出そうと…うう、暑い。資料館の中は、クーラーがきいていたが、外に出たとたん熱射光にやられ、木陰に逃げ、座りこんでしまった俺。はらはらとただ泣く。

 

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いしじと、ご遺族の皆さん

いしじは、事実をのみ、列挙する。歴史資料とは、別の時代の杓子定規に、左右されないものを指す。いしじが、そうだ。戦没者の名をのみ列挙する。列挙する。名前、名前、名前。これは「ちから」だ。これは、強いちからだ。命は、こんなにたくさん、奪われたのだけど、そのひとつひとつの命は、けして、けして、弱くはない。

 

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お花や、うっちん茶や、お菓子やの、お供えもの 

お父さん、お母さん。痛かったね。苦しかったね。きょうはこんなに暑いのに、お水も、食べ物も、なかったね。沖縄は、本当は、作物豊かな島なのにね。ぜんぶ、とられた。お父さん、お母さん、とられた。戦争に。

 

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美しいその名はいつまでも

…俺はかつて、こんなに美しい墓碑を見たことがなかったし、こんなに清い気持ちで捧げられた供物を、見たことがなかったのだ。

今日という日に、ここへ来なければ、わからないことの、多さ、大きさ…そうだこれは、強さだ!ちからだ!

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平和の火。水の上、燃え続ける炎。火と水のモニュメント「平和の火」

 

居並ぶ墓石には、敵国であった米軍兵の戦没者、1万4千余名の分も、ちゃんと、ある。戦況としては優勢だった米軍側。その兵士たちには、発狂する者が続出した。と、いうことを、資料館で学習し、俺はハッとした。そう言われてみなくては、感性的にはわからなかったから。無理やり召集された若者であることに、戦争の犠牲者であることに、アメリカ人も、日本人も、変わりはないじゃないか。どうして俺は、こんな当たり前のことが、感じられなくなっていたのだろう。反米だ、反帝国主義だと、常日頃、がなってばかりの…左翼セクト主義の、愚かしさの見本は、他ならぬこの俺だろうさ。

 

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摩文仁の丘慰霊塔

いしじのあった広場を通りぬけ、次に、小高い丘を登った。丘の上には、広い、ひっろい、参拝場があった。摩文仁の丘慰霊塔。国立沖縄戦没者墓苑である。いや、しかし、何度も書くが、暑い。熱中症になりかけながら、「ずいぶん広いなあ。どこまで続くんだ?この丘って。」と思い、つらつら歩いていると、そこかしこに、日本国中、各県の「慰霊塔」があることに気がついた。「青森の塔」とか、「愛媛の塔」とか。「これはッ!我がガラマニ県の慰霊塔もあるに違いない!見つけ出して、是非ともお参りしなければならぬな!」では、暑いけど、力振り絞って、探しに行こうぜ。

 

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ガラマニ県の塔発見!

 

あった!我が郷土、ガラマニ県の慰霊塔だ。俺さ、平和祈念公園に、こういう各県の慰霊塔があるって、知らなかったから、沖縄に来て2日目に、ここをみつけて、すごく嬉しかったんだよ。

 

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写真の石碑より引用(一部改変)

「太平洋戦争において 沖縄をはじめ 遠く南方諸地域の激戦に祖国日本の隆晶を願いつつ散華せられたガラマニ県出身二万七千余柱の英霊の冥福を祈り その勲功を永く後世に伝えるため ここ摩文仁の地を選んで この慰霊塔を建立する」
勲功か…いさおしのかけらもなくし、南国に捨てられた餓死者へ、戦病死者へ。沖縄を守らんとした特攻死者へ。大戦に失われたすべての命へと、祈ろう。俺には、それしか、できやしない。

ああ、赤い花が。

 

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お供えと、海と空と、赤い花    

 

お祈りするほか、なにもできないという、はがゆさを感じた。煎茶のペットボトルのふたを開け、お供えにした。お数珠で合掌し、ふと海のほうを見やると、海と空の、青に映えて、赤い花が咲きこぼれているのが目にとまった。その花を見た瞬間。沖縄の、きょうのこの日に、この場所に来たことの意味を、咀嚼はできないのだけど、自我でもって考えることが、できるようになった。俺は、沖縄戦の真実を知らなかった、異邦人であることを、なにかどこか、恥じていた。

だけれども、ガラマニ県の慰霊塔の、そばに咲いていた赤い花が、俺に、こう言ってくれたように感じたのだ。「あなたは、あなたがなすべきことを、なすべきであるのだ。」と。では今、俺は、なにをなすべきか?そう、このガラマニ日誌を、書くことだ。

沖縄より郷里の家に戻ったのは、7/1。それより3週間以上、俺はこの日誌を、書いて、消して消して、また書いた。戦争の記録を、書いてみた。捨てた。政権批判を書いてみた。捨てた。そして、見たまま、感じたままを、書くことにした。

俺は、自分が感じたことを、信じよう。

 

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06/7/26(水)